郭孝恪, 許州陽翟人也.
곽효각郭孝恪은 허주許州 양적현陽翟縣 사람이다.
少有志節. 隋末, 率鄉曲數百人附於李密, 密大悅之, 謂曰:「昔稱汝‧潁多奇士, 故非謬也.」令與徐勣守黎陽. 後密敗, 勣令孝恪入朝送款, 封陽翟郡公, 拜宋州刺史. 令與徐勣經營武牢已東, 所得州縣, 委以選補. 其後, 竇建德率眾來援王世充, 孝恪於青城宮進策於太宗曰:「世充日踧月迫, 力盡計窮, 懸首面縛, 翹足可待. 建德遠來助虐, 糧運阻絕, 此是天喪之時. 請固武牢, 屯軍氾水, 隨機應變, 則易為克殄.」太宗然其計. 及破建德, 平世充, 太宗於洛陽置酒高會諸將曰:「郭孝恪謀擒建德之策, 王長先龍門下米之功, 皆出諸人之右也.」歷遷貝‧趙‧江‧涇四州刺史, 所在有能名, 入為太府少卿, 轉左驍衛將軍.
貞觀十六年, 累授金紫光祿大夫, 行安西都護‧西州刺史. 其地高昌舊都, 士流與流配及鎮兵雜處, 又限以沙磧, 與中國隔絕, 孝恪推誠撫禦, 大獲其歡心. 初, 王師之滅高昌也, 制以高昌所虜焉耆生口七百盡還之. 焉耆王尋叛歸欲穀可汗, 朝貢稀至. 令孝恪伺其機便, 因表請擊之. 以孝恪為安西道行軍總管, 率步騎三千出銀山道以伐焉耆. 孝恪夜襲其城, 虜其王龍突騎支. 太宗大悅, 璽書勞之曰「卿破焉耆, 虜其偽王, 功立威行, 深副所委. 但焉耆絕域, 地阻天山, 恃遠憑深, 敢懷叛逆. 卿望崇位重, 報效情深, 遠涉沙場, 龔行罰罪. 取其堅壁, 曾不崇朝;再廓遊魂, 遂無遺寇. 緬思竭力, 必大艱辛, 超險成功, 深足嘉尚.」
俄又以孝恪為崑丘道副大總管以討龜茲, 破其都城, 孝恪自留守之, 餘軍分道別進, 龜茲國相那利率眾遁逃. 孝恪以城外未賓, 乃出營於外, 有龜茲人來謂孝恪曰:「那利為相, 人心素歸, 今亡在野, 必思為變. 城中之人, 頗有異志, 公宜備之.」孝恪不以為虞. 那利等果率眾萬餘, 陰與城內降胡表裏為應. 孝恪失於警候, 賊將入城鼓譟, 孝恪始覺之, 乃率部下千餘人入城, 與賊合戰. 城中人復應那利, 攻孝恪. 孝恪力戰而入, 至其王所居, 旋復出, 戰於城門, 中流矢而死, 孝恪子待詔亦同死於陣. 賊竟退走, 將軍曹繼叔復拔其城. 太宗聞之, 初責孝恪不加警備, 以致顛覆;後又憐之, 為其家舉哀. 高宗即位, 追贈安西都護‧陽翟郡公, 待詔贈遊擊將軍, 仍賻物三百段. 孝恪性奢侈, 僕妾器玩, 務極鮮華, 雖在軍中, 床帳完具. 嘗以遺行軍大總管阿史那社爾, 社爾一無所受. 太宗聞之曰:「二將優劣之不同也. 郭孝恪今為寇虜所屠, 可謂自貽伊咎耳.」
次子待封, 高宗時, 官至左豹韜衛將軍.
둘째 아들 대봉待封은 고종高宗의 시기에 관직官職이 좌표도위장군左豹韜衛將軍에 이르렀다.
鹹亨中, 與薛仁貴率兵討吐蕃於大非川, 戰敗, 減死除名.
함형鹹亨 연간에 설인귀薛仁貴와 병사를 거느리고 대비천大非川에서 토번吐蕃을 토벌하였는데, 전투에서
少子待聘, 長安中官至宋州刺史.
張儉, 雍州新豐人, 隋相州刺史‧皖城公威之孫也.
장검張儉은 옹주雍州 신풍현新豐縣 사람이고, 수隋의 상주자사相州刺史‧환성공皖城公 위威의 손자이다.
父植, 車騎將軍‧連城縣公.
아버지 장식張植은 거기장군車騎將軍‧연성현공連城縣公이었다.
儉即高祖之從甥也.
장검張儉은 고조高祖의 조카이다.
貞觀初, 以軍功累遷朔州刺史.
정관貞觀 초년에 전쟁에서 세운 공로로 누차 옮겨져 삭주자사朔州刺史가 되었다.
時頡利可汗自恃強盛, 每有所求, 輒遣書稱敕, 緣邊諸州, 遞相承稟. 及儉至, 遂拒不受, 太宗聞而嘉之. 儉又廣營屯田, 歲致穀十萬斛, 邊糧益饒. 及遭霜旱, 勸百姓相贍, 遂免飢餒, 州境獨安.
後檢校勝州都督, 以母憂去職. 儉前在朔州, 屬李靖平突厥之後, 有思結部落, 貧窮離散, 儉招慰安集之. 其不來者, 或居磧北, 既親屬分住, 私相往還, 儉並不拘責, 但存綱紀, 羈縻而已. 及儉移任, 州司謂其將叛, 遽以奏聞. 朝廷議發兵進討, 仍起儉為使, 就觀動靜. 儉單馬推誠, 入其部落, 召諸首領, 布以腹心, 鹹匍匐啟顙而至, 便移就代州. 即令檢校代州都督. 儉遂勸其營田, 每年豐熟. 慮其私畜富實, 易生驕侈, 表請和糴, 擬充貯備, 蕃人嘉悅, 邊軍大收其利. 遷營州都督, 兼護東夷校尉.
太宗將征遼東, 遣儉率蕃兵先行抄掠. 儉軍至遼西, 為遼水汎漲, 久而未渡, 太宗以為畏懦, 召還. 儉詣洛陽謁見, 面陳利害, 因說水草好惡, 山川險易, 太宗甚悅, 仍拜行軍總管, 兼領諸蕃騎卒, 為六軍前鋒. 時有獲高麗候者, 稱莫離支將至遼東, 詔儉率兵自新城路邀擊之, 莫離支竟不敢出. 儉因進兵渡遼, 趨建安城, 賊徒大潰, 斬首數千級. 以功累封皖城郡公, 賞賜甚厚. 其後, 改東夷校尉為東夷都護, 仍以儉為之.
永徽初, 加金紫光祿大夫.
영휘永徽 초년에 금자광록대부金紫光祿大夫를 더하였다.
四年, 卒於官, 年六十, 諡曰密.
4년, 관저官邸에서 졸하였는데, 60세였고, 시호諡號는 밀密이라고 하였다.
儉兄大師, 累以軍功仕至太僕卿‧華州刺史‧武功縣男.
장검張儉의 형은 대사大師이고, 누차 전쟁에서 세운 공로로 벼슬을 하여 태복경太僕卿‧화주자사華州刺史‧무공현남武功縣男에 이르렀다.
儉弟延師, 永徽初, 累授左衛大將軍, 封範陽郡公.
장검張儉의 동생은 연사延師이고, 영휘永徽 초년에 누차 좌위대장군左衛大將軍에 제수되었고, 범양군공範陽郡公에 봉해졌다.
延師廉謹周慎, 典羽林屯兵前後三十餘年, 未嘗有過, 朝廷以此稱之.
龍朔三年, 卒官, 贈荊州都督, 諡曰敬, 陪葬昭陵.
용삭龍朔 3년, 관저官邸에서 졸하였고, 형주도독荊州都督을 추증하였고, 시호諡號는 경敬이었고, 소릉昭陵에 배장하였다.
唐制三品已上, 門列棨戟, 儉兄弟三院門皆立戟, 時人榮之, 號為「三戟張家」.
蘇定方, 冀州武邑人也.
소정방蘇定方은 기주冀州 무읍현武邑縣 사람이다.
父邕, 大業末, 率鄉閭數千人為本郡討賊.
아버지 소웅蘇邕은 대업大業[605년~617년] 말년, 마을 사람 수천 명을 거느리고 본군本郡의 적賊들을 토벌하였다.
定方驍悍多力, 膽氣絕倫, 年十餘歲, 隨父討捕, 先登陷陣.
父卒, 郡守又令定方領兵, 破賊首張金稱於郡南,
手斬金稱, 又破楊公卿於郡西, 追奔二十餘裏, 殺獲甚眾, 鄉黨賴之.
【원문】後仕竇建德, 建德將高雅賢甚愛之, 養以為子.
【번역】후에 두건덕竇建德에게서 벼슬을 하였는데, 두건덕竇建德의 장군將軍 고아현高雅賢이 심히 사랑하였더니 양아들로 삼았다.
【원문】雅賢俄又為劉黑闥攻陷城邑, 定方每有戰功.
【번역】고아현高雅賢이 얼마 되지 않아 유흑달劉黑闥에게 속하게 되어서 무읍城邑을 공격하여 함락시켰는데, 소정방蘇定方은 매번 전공을 세웠다.
【원문】及黑闥‧雅賢死, 定方歸鄉裏.
【번역】유흑달劉黑闥과 고아현高雅賢이 죽었더니 소정방定方은 고향으로 돌아갔다.
【원문】貞觀初, 為匡道府折衝, 隨李靖襲突厥頡利於磧口.
【번역】정관貞觀〔627년~649년〕초년에 광도부절충匡道府折衝이 되었고, 수隨의 이정李靖과 적구磧口에서 돌궐突厥의 힐리頡利를 습격하였다.
靖使定方率二百騎為前鋒, 乘霧而行, 去賊一裏許, 忽然霧歇, 望見其牙帳, 馳掩殺數十百人.
頡利及隋公主狼狽散走, 餘眾俯伏, 靖軍既至, 遂悉降之.
軍還, 授左武候中郎將.
군대가 돌아왔더니, 좌무후중낭장左武候中郎將에 임명되었다.
永徽中, 轉左衛勳一府中郎將, 從左衛大將軍程知節征賀魯, 為前軍總管.
영휘永徽〔650년~655년〕좌위훈일부중낭장左衛勳一府中郎將으로 옮겨졌고, 좌위대장군左衛大將軍 정지절程知節을 쫓아서 하로賀魯를 정벌하였더니 전군총관前軍總管이 되었다.
至鷹娑川, 突厥有二萬騎來拒, 總管蘇海政與戰, 互有前卻, 既而突厥別部鼠尼施等又領二萬餘騎續至. 定方正歇馬, 隔一小嶺, 去知節十許裏, 望見塵起, 率五百騎馳往擊之, 賊眾大潰, 追奔二十裏, 殺千五百餘人, 獲馬二千匹, 死馬及所棄甲仗, 綿亙山野, 不可勝計. 副大總管王文度害其功, 謂知節曰:「雖雲破賊, 官軍亦有死傷, 蓋未決成敗法耳, 何為此事?自今正可結為方陣, 輜重並納腹中, 四面布隊, 人馬被甲, 賊來即戰, 自保萬全. 無為輕脫, 致有傷損.」又矯稱別奉聖旨, 以知節恃勇輕敵, 使文度為其節制, 遂收軍不許深入. 終日跨馬, 被甲結陣, 由是馬多瘦死, 士卒疲勞, 無有戰志. 定方謂知節曰:「本來討賊, 今乃自守, 馬餓兵疲, 逢賊即敗, 怯懦如此, 何功可立!又公為大將, 閫外之事不許自專, 別遣軍副專其號令, 理必不然. 須囚縶文度, 飛表奏之.」知節不從. 至怛篤城, 有胡降附, 文度又曰:「比我兵迴, 彼還作賊, 不如盡殺, 取其資財.」定方曰:「如此自作賊耳, 何成伐叛?」文度不從. 及分財, 唯定方一無所取. 師還, 文度坐處死, 後得除名.
明年, 擢定方為行軍大總管, 又征賀魯, 以任雅相‧迴紇婆潤為副. 自金山之北, 指處木昆部落, 大破之. 其俟斤嬾獨祿以眾萬餘帳來降, 定方撫之, 發其千騎進至突騎施部. 賀魯率胡祿屋闕啜‧懾舍提啜‧鼠尼施處半啜‧處木昆屈律啜‧五弩失畢兵馬, 眾且十萬, 來拒官軍, 定方率迴紇及漢兵萬餘人擊之. 賊輕定方兵少, 四面圍之, 定方令步卒據原, 攢矛外向, 親領漢騎陣於北原. 賊先擊步軍, 三衝不入, 定方乘勢擊之, 賊遂大潰, 追奔三十裏, 殺人馬數萬. 明日, 整兵復進. 於是胡祿屋等‧五弩失畢悉眾來降, 賀魯獨與處木昆屈律啜數百騎西走. 餘五咄六聞賀魯敗, 各向南道降於步真, 於是西蕃悉定. 唯賀魯及咥運率其牙內餘眾而奔, 定方追之, 復大戰於伊麗水上, 殺獲略盡. 賀魯及咥運十餘騎逼夜亡走, 定方遣副將蕭嗣業追捕之, 至於石國, 擒之而還. 高宗臨軒, 定方戎服操賀魯以獻, 列其地為州縣, 極於西海. 定方以功遷左驍衛大將軍, 封邢國公, 又封子慶節為武邑縣公.
俄有思結闕俟斤都曼先鎮諸胡, 擁其所部及疏勒‧朱俱般‧蔥嶺三國復叛, 詔定方為安撫大使, 率兵討之. 至葉葉水, 而賊保馬頭川. 於是選精卒一萬人‧馬三千匹馳掩襲之, 一日一夜行三百裏, 詰朝至城西十裏. 都曼大驚, 率兵拒戰於城門之外, 賊師敗績, 退保馬保城, 王師進屯其門. 入夜, 諸軍漸至, 四面圍之, 伐木為攻具, 布列城下. 都曼自知不免, 面縛開門出降. 俘還至東都, 高宗禦乾陽殿, 定方操都曼特勤獻之, 蔥嶺以西悉定. 以功加食邢州钜鹿真邑五百戶.
顯慶 五年, 從幸太原, 制授熊津道大總管, 率師討百濟.
定方自城山濟海, 至熊津江口, 賊屯兵據江.
定方升東岸, 乘山而陣, 與之大戰, 揚帆蓋海, 相續而至.
賊師敗績, 死者數千人, 自餘奔散.
遇潮且上, 連舳入江, 定方於岸上擁陣, 水陸齊進, 飛楫鼓譟, 直趣眞都.
바다와 육지로 나란히 진격하였는데, 곧장 사비성泗沘城으로 달려갔다.
去城二十許裏, 賊傾國來拒, 大戰破之, 殺虜萬餘人, 追奔入郭.
사비성泗沘城으로부터 20여리 떨어진 곳에서
其王義慈及太子隆奔於北境, 定方進圍其城. 義慈次子泰自立為王, 嫡孫文思曰 "王與太子雖並出城, 而身見在. 叔總兵馬, 即擅為王, 假令漢兵退, 我父子當不全矣."
遂率其左右投城而下, 百姓從之, 泰不能止.
定方命卒登城建幟, 於是泰開門頓顙. 其大將禰植又將義慈來降, 太子隆並與諸城主皆同送款. 百濟悉平, 分其地為六州. 俘義慈及隆‧泰等獻於東都.
定方前後滅三國, 皆生擒其主, 賞賜珍寶, 不可勝計, 仍拜其子慶節為尚輦奉禦. 定方俄遷左武衛大將軍.
【원문】乾封 二年 卒, 年七十六.
【번역】건봉乾封〔666년~668년〕2년《667년》죽었는데, 76세였다.
高宗聞而傷惜, 謂侍臣曰 "蘇定方於國有功, 例合褒贈, 卿等不言, 遂使哀榮未及. 興言及此, 不覺嗟悼."
遽下詔贈幽州都督, 諡曰莊.
薛仁貴, 絳州龍門人.
설인귀薛仁貴는 강주絳州 용문현龍門縣 사람이다.
貞觀末, 太宗親征遼東, 仁貴謁將軍張士貴應募, 請從行. 至安地, 有郎將劉君昂為賊所圍甚急, 仁貴往救之, 躍馬徑前, 手斬賊將, 懸其頭於馬鞍, 賊皆懾伏, 仁貴遂知名. 及大軍攻安地城, 高麗莫離支遣將高延壽‧高惠真率兵二十五萬來拒戰, 依山結營, 太宗分命諸將四面擊之. 仁貴自恃驍勇, 欲立奇功, 乃異其服色, 著白衣, 握戟, 腰鞬張弓, 大呼先入, 所向無前, 賊盡披靡卻走. 大軍乘之, 賊乃大潰, 太宗遙望見之, 遣馳問先鋒白衣者為誰, 特引見, 賜馬兩匹‧絹四十匹, 擢授遊擊將軍‧雲泉府果毅, 仍令北門長上, 並賜生口十人. 及軍還, 太宗謂曰:「朕舊將並老, 不堪受閫外之寄, 每欲抽擢驍雄, 莫如卿者. 朕不喜得遼東, 喜得卿也.」尋遷右領軍郎將, 依舊北門長上.
永徽五年, 高宗幸萬年宮, 甲夜, 山水猥至, 衝突玄武門, 宿衛者散走. 仁貴曰:「安有天子有急, 輒敢懼死?」遂登門桄叫呼以驚宮內. 高宗遽出乘高, 俄而水入寢殿, 上使謂仁貴曰:「賴得卿呼, 方免淪溺, 始知有忠臣也.」於是賜禦馬一匹.
蘇定方之討賀魯也, 於是仁貴上疏曰:「臣聞兵出無名, 事故不成, 明其為賊, 敵乃可伏. 今泥熟仗素幹, 不伏賀魯, 為賊所破, 虜其妻子. 漢兵有於賀魯諸部落得泥熟等家口, 將充賤者, 宜括取送還, 仍加賜賚. 即是矜其枉破, 使百姓知賀魯是賊, 知陛下德澤廣及也.」高宗然其言, 使括泥熟家口送還之, 於是泥熟等請隨軍效其死節.
顯慶二年, 詔仁貴副程名振於遼東經略, 破高麗於貴端城, 斬首三千級. 明年, 又與梁建方‧契苾何力於遼東共高麗大將溫沙門戰於橫山, 仁貴匹馬先入, 莫不應弦而倒. 高麗有善射者, 於石城下射殺十餘人, 仁貴單騎直往衝之, 其賊弓矢俱失, 手不能舉, 便生擒之. 俄又與辛文陵破契丹於黑山, 擒契丹王阿蔔固及諸首領赴東都, 以功封河東縣男.
尋又領兵擊九姓突厥於天山, 將行, 高宗內出甲, 令仁貴試之. 上曰:「古之善射有穿七劄者, 卿且射五重.」仁貴射而洞之, 高宗大驚, 更取堅甲以賜之. 時九姓有眾十餘萬, 令驍健數十人逆來挑戰, 仁貴發三矢射殺三人, 自餘一時下馬請降. 仁貴恐為後患, 並坑殺之. 更就磧北安撫餘眾, 擒其偽葉護兄弟三人而還. 軍中歌曰:「將軍三箭定天山, 戰士長歌入漢關.」九姓自此衰弱, 不復更為邊患.
乾封初, 高麗大將泉男生率眾內附, 高宗遣將軍龐同善‧高侃等迎接之, 男生弟男建率國人逆擊同善等, 詔仁貴統兵為後援. 同善等至新城, 夜為賊所襲. 仁貴領驍勇赴救, 斬首數百級. 同善等又進至金山, 為賊所敗, 高麗乘勝而進. 仁貴橫擊之, 賊眾大敗, 斬首五萬餘級, 遂拔其南蘇‧木底‧蒼巖等三城, 始與男生相會. 高宗手敕勞之曰:「金山大陣, 凶黨實繁. 卿身先士卒, 奮不顧命, 左衝右擊, 所向無前, 諸軍賈勇, 致斯克捷. 宜善建功業, 全此令名也.」仁貴乘勝領二千人進攻扶餘城, 諸將鹹言兵少, 仁貴曰:「在主將善用耳, 不在多也.」遂先鋒而行, 賊眾來拒, 逆擊大破之, 殺獲萬餘人, 遂拔扶餘城. 扶餘川四十餘城, 乘風震慴, 一時送款. 仁貴便並海略地, 與李勣大會軍於平壤城. 高麗既降, 詔仁貴率兵二萬人與劉仁軌於平壤留守, 仍授右威衛大將軍, 封平陽郡公, 兼檢校安東都護. 移理新城, 撫恤孤老, 有幹能者, 隨才任使, 忠孝節義, 鹹加旌表, 高麗士眾莫不欣然慕化.
鹹亨元年, 吐蕃入寇, 又以仁貴為邏娑道行軍大總管, 率將軍阿史那道真‧郭待封等以擊之. 待封嘗為鄯城鎮守, 恥在仁貴之下, 多違節度. 軍至大非川, 將發赴烏海, 仁貴謂待封曰:「烏海險遠, 車行艱澀, 若引輜重, 將失事機, 破賊即迴, 又煩轉運. 彼多瘴氣, 無宜久留. 大非嶺上足堪置柵, 可留二萬人作兩柵, 輜重等並留柵內. 吾等輕銳倍道, 掩其未整, 即撲滅之矣.」仁貴遂率先行至河口, 遇賊擊破之, 斬獲略盡, 收其牛羊萬餘頭, 迴至烏海城, 以待後援. 待封遂不從仁貴之命, 領輜重繼進. 比至烏海, 吐蕃二十餘萬悉眾來救, 邀擊, 待封敗走趨山, 軍糧及輜重並為賊所掠. 仁貴遂退軍屯於大非川. 吐蕃又益眾四十餘萬來拒戰, 官軍大敗, 仁貴遂與吐蕃大將論欽陵約和. 仁貴歎曰:「今年歲在庚午, 軍行逆歲, 鄧艾所以死於蜀, 吾知所以敗也.」仁貴坐除名.
尋而高麗眾相率復叛, 詔起仁貴為雞林道總管以經略之. 上元中, 坐事徙象州, 會赦歸. 高宗思其功, 開耀元年, 復召見謂曰:「往九成宮遭水, 無卿已為魚矣. 卿又北伐九姓, 東擊高麗, 漠北‧遼東鹹遵聲教者, 並卿之力也. 卿雖有過, 豈可相忘?有人雲卿烏海城下自不擊賊, 致使失利, 朕所恨者, 唯此事耳. 今西邊不靜, 瓜‧沙路絕, 卿豈可高枕鄉邑, 不為朕指揮耶?」於是起授瓜州長史, 尋拜右領軍衛將軍, 檢校代州都督. 又率兵擊突厥元珍等於雲州, 斬首萬餘級, 獲生口二萬餘人‧駝馬牛羊三萬餘頭. 賊聞仁貴復起為將, 素憚其名, 皆奔散, 不敢當之. 其年, 仁貴病卒, 年七十, 贈左驍衛將軍, 官造靈輿, 並家口給傳還鄉.
子訥, 別有傳.
아들 설눌薛訥은 별도의 열전列傳이 있다.
程務挺, 洺州平恩人也.
정명진程務挺은 명주洺州 평은현平恩縣 사람이다.
父名振, 大業末, 仕竇建德為普樂令, 甚有能名, 諸賊不敢犯其境.
아버지의 이름은 진振이고, 대업大業 말년에 두건덕竇建德에게 벼슬하여 보락령普樂令이 되었고, 심히 유능하다는 평판이 있었고, 모든 적賊들이 그 국경을 감히 침범할 수 없었다.
尋棄建德歸國, 高祖遙授永年令, 仍令率兵經略河北. 名振夜襲鄴縣, 俘其男女千餘人以歸. 去鄴八十裏, 閱婦人有乳汁者九十餘人, 悉放遣之. 鄴人感其仁恕, 為之設齋, 以報其恩. 及建德敗, 始之任. 俄而劉黑闥陷洺州, 名振復與刺史陳君賓自拔歸朝. 母潘‧妻李, 在路為賊所掠, 沒於黑闥. 名振又從太宗討黑闥, 時黑闥於冀‧貝‧滄‧瀛等州水陸運糧, 以拒官軍, 名振率千餘人邀擊之, 盡毀其舟車. 黑闥聞之大怒, 遂殺名振母‧妻. 及黑闥平, 名振請手斬黑闥, 以其首祭母. 名振以功拜營州都督府長史, 封東平郡公, 賜物二千段‧黃金三百兩. 累轉洺州刺史.
太宗將征遼東, 召名振問以經略之事, 名振初對失旨, 太宗動色詰之, 名振酬對逾辯. 太宗意解, 謂左右曰:「房玄齡常在我前, 每見別嗔餘人, 猶顏色無主. 名振生平不見我, 向來責讓, 而詞理縱橫, 亦奇士也.」即日拜右驍衛將軍, 授平壤道行軍總管. 前後攻沙卑城, 破獨山陣, 皆以少擊眾, 稱為名將. 永徽六年, 累除營州都督, 兼東夷都護. 又率兵破高麗於貴端水, 焚其新城, 殺獲甚眾. 後歷晉‧蒲二州刺史. 龍朔二年卒, 贈右衛大將軍, 諡曰烈.
務挺少隨父征討, 以勇力聞, 遷右領軍衛中郎將. 永隆中, 突厥史伏念反叛, 定襄道行軍總管李文暕‧曹懷舜‧竇義昭等相次戰敗. 又詔禮部尚書裴行儉率兵討之, 務挺為副將, 仍檢校豐州都督. 時伏念屯於金牙山, 務挺與副總管唐玄表引兵先逼之. 伏念懼不能支, 遂間道降於行儉, 許伏念以不死. 中書令裴炎以伏念懼務挺等兵勢而降, 非行儉之功, 伏念遂伏誅. 務挺以功遷右衛將軍, 封平原郡公.
永淳二年, 綏州城平縣人白鐵餘率部落稽之黨據縣城反, 偽稱尊號, 署百官, 又進寇綏德, 殺掠人吏, 焚燒村落, 詔務挺與夏州都督王方翼討之. 務挺進攻其城, 拔之, 生擒白鐵餘, 盡平其餘黨. 又以功拜左驍衛大將軍‧檢校左羽林軍.
嗣聖初, 與右領軍大將軍‧檢校右羽林軍張虔勗同受則天密旨, 帥兵入殿庭, 廢中宗為廬陸王, 立豫王為皇帝. 則天臨朝, 累受賞賜, 特拜其子齊之為尚乘奉禦. 務挺泣請迴授其弟, 則天嘉之, 下制褒美, 乃拜其弟原州司馬務忠為太子洗馬.
文明年, 以務挺為左武衛大將軍‧單於道安撫大使, 督軍以禦突厥. 務挺善於綏禦, 威信大行, 偏裨已下, 無不盡力, 突厥甚憚之, 相率遁走, 不敢近邊. 及裴炎下獄, 務挺密表申理之, 由是忤旨. 務挺素與唐之奇‧杜求仁友善, 或構言務挺與裴炎‧徐敬業皆潛相應接. 則天遣左鷹揚將軍裴紹業就軍斬之, 籍沒其家. 突厥聞務挺死, 所在宴樂相慶, 仍為務挺立祠, 每出師攻戰, 即祈禱焉.
貞觀‧永徽間軍將, 又有張士貴‧趙道興, 狀跡可錄.
張士貴者, 虢州盧氏人也.
장사귀張士貴란 사람은 괵주虢州 노씨현盧氏縣 사람이다.
本名忽峍, 善騎射, 膂力過人. 大業末, 聚眾為盜, 攻剽城邑, 遠近患之, 號為「忽賊」. 高祖降書招懷之, 士貴以所統送款, 拜右光祿大夫. 累有戰功, 賜爵新野縣公. 從平東都, 授虢州刺史, 高祖謂之曰:「欲卿衣錦晝遊耳.」尋入為右武候將軍. 貞觀七年, 破反獠而還, 太宗勞之曰:「聞公親當矢石, 為士卒先, 雖古名將, 何以加也. 朕嘗聞以身報國者, 不顧性命, 但聞其語, 未聞其實, 於公見之矣.」後累遷左領軍大將軍, 改封虢國公. 顯慶初卒, 贈荊州都督, 陪葬昭陵.
趙道興者, 甘州酒泉人, 隋右武候大將軍才之子也.
조도흥趙道興이란 사람은 감주甘州 주천현酒泉縣 사람이고, 수隋의 우무후대장군右武候大將軍 재才의 아들이다.
道興, 貞觀初歷遷左武候中郎將, 明閑宿衛, 號為稱職. 太宗嘗謂之曰:「卿父為隋武候將軍, 甚有當官之譽. 卿今克傳弓冶, 可謂不墜家聲.」因授右武候將軍, 賜爵天水縣子. 其父時廨宇, 仍舊不改, 時人以為榮. 道興嘗自指其廳事曰:「此是趙才將軍廳, 還使趙才將軍兒坐.」為朝野所笑, 傳為口實. 儀鳳中, 累遷左金吾衛大將軍. 文明年, 以老病致仕於家.
子皎, 亦為金吾將軍, 凡三代執金吾, 為時所稱.
아들 조교趙皎는 역시 금오장군金吾將軍이 되었고, 무릇 3대가 집금오執金吾였고, 為時所稱.
史臣曰:孝恪機鈐果毅, 協草昧之際;樹勳建策, 有傑世之風. 然而務奢為恆, 既未盡善, 舉眾失律, 不其惑與!張公經略, 有天然才度, 務穡勸分, 董和成績, 惜哉中壽, 其才未盡. 邢國公神略翕張, 雄謀戡定, 輔平屯難, 始終成業. 疏封陟位, 未暢茂典, 蓋闕如也. 仁貴驍悍壯勇, 為一時之傑, 至忠大略, 勃然有立. 噫, 待封不協, 以敗全略. 孔子曰:「可與立, 未可與權.」上加明命, 竟致立功, 知臣者君, 信哉. 務挺勇力驍果, 固有父風, 英概輔時, 克繼洪烈. 然而苟預廢立, 竟陷讒構. 古之言曰:「惡之來也, 如火之燎於原, 不可嚮邇.」其是之謂乎!士貴‧道興, 逢時立效, 得盡義勇, 以觀厥成;而繼父風概, 三代執金, 不亦美乎!
贊曰:五將雄雄, 俱立邊功. 張‧蘇二族, 功名始終. 郭‧薛‧務挺, 徼功奮命. 垂則窮邊, 兵無常勝.
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